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お知らせ(著者からのメッセージ)

 著者メッセージ - 2009.08.28

赤ちゃんにおむつはいらない
病院の言葉を分かりやすく
著作権法コンメンタール
瀬名秀明 ロボット学論集
意味とシステム
ジェンダー経済格差
悪夢の医療史
著作権保護期間
子どもたちの三つの「危機」
説得の技術としての経済学
利息制限法潜脱克服の実務
シリーズ 開発経済学の挑戦
なぜ「教育が主戦場」となったのか
基礎から学ぶ生命倫理学
紛争の戦略
中国の経済大論争
不安定雇用という虚像
時間と絶対と相対と
カップルが親になるとき
経験のメタモルフォーゼ
戦争を読む
戦争の論理
講座 医療経済・政策学

 


赤ちゃんにおむつはいらない

三砂ちづる 編著       

 本来ならば、生まれたばかりの赤ちゃんや幼い人は、どう考えても一番大切にされるべき人たちである。なぜなら、私たちがいのちを終え、この世にもう存在しなくなるころ、いまここにいる幼い人たちが、中枢となって、この世界を動かしていくからである。

 私たちの生きる今は、すこしずつ、よき世界となっている。異論もあるだろう。しかし、確実に私たちは住んでいる世界をすこしずつよきものにしてきた。理不尽な差別はまだあっても、それは許されないことであることは知っている。目をおおうような格差はまだまだ存在していても、それを解消するために、多くの人が身を粉にして働いていることも知っている。文化的な差異を、愚劣な言葉ではなく、美しい言葉で認めていくことも学んできた。それでも、まだまだ、やるべきことはたくさん残っている。それに何より、解決する先から、新しい問題が生まれてくるのである。

 これらをすべて受け止めながら、今ある世界をbetter placeにする努力を、私たちはいやおうなしに、今、ここにいる幼い人たちに託さなければならない。なぜなら、私たちのほとんどは、今から努力を重ねるにしても、数えるに難しくない年数のうちに死に、次の世代にその先の仕事を任せることになるからである。

 そうであるならば、私たちはどのように次の世代を育てよう?この世界を託すべき人をどうやってはぐくもう?生まれてきて、今、生きる世界が美しい、と感じることができる幼い人は、きっと、成長した暁に、この美しい世界をいっそう美しくするために尽力してくれるだろう。生まれてこなければよかった、という思いを幼いころに抱かなければならなかった人は、この世界の美しさの再発見のために、人生の多くを費やさねばならないだろう。

 この本では、幼い人に、この世界が生きるに値する、と感じてもらうための、ほんのささやかな試みのひとつをとりあげた。長く伝えられてきていたのに少しだけ途絶えてしまっていた先人の知恵のひとつの継承を試みた。次の世代のことを考える方に、ぜひ、手にとってほしい。

(2009.8.28)       

 


病院の言葉を分かりやすく

国立国語研究所「病院の言葉」委員会       
作業部会長 田中牧郎
       

 まず誰よりも、患者とのコミュニケーションを大事にしたいと思っている医療者に読んでもらいたい本です。そして、医療者とのコミュニケーションをより良いものにしたいと願っている一般の人にも参考になる本だと思います。さらに、言葉を使って意味を伝えるとはどういうことかという問いに関心のある人にも、興味を持ってもらえる本だと考えています。

 現代の医療は、患者中心の医療という理念がうたわれ、インフォームドコンセント(説明と同意)という手続きが重視されていますが、それらの前提になるはずの、患者の理解が置き去りされてきたという問題があります。説明される内容を理解していないのに、患者が自分で決めたり、同意書にサインしたりすることは、本来できないはずです。この問題に「言葉」の面からアプローチし、医療者が言葉遣いを工夫することで改善していく方法を示そうとしたのが、この本です。

 膨大な医療用語の中から、言葉がどのように使われているかの分析データと、医師に対するアンケートのデータをもとに2000語のリストを作り、このリストを言語学と医療の専門家が詳しく検討して、患者にとって重要でありながら難解な100語を選びました。この100語について、どのように言い換えたり説明したりすれば患者によく理解してもらえるのか、その際に注意すべきことはどんなことなのかについて、共同作業を行いながら詳しく検討しました。  

 検討の結果を、医療者が現場で出会う、多様な言葉・患者・場面に応用して使えるように、基本的な三種五類の類型にまとめ、各類型を代表する典型例57語について、分かりやすく伝える工夫の事例を示しました。

 この本は、言語と医療という異業種の専門家が真剣に議論を戦わせることで作ることができた、特色あふれる本です。多くの人にこの本を手にとってもらい、分かりやすい言葉を使うことの意義、医療におけるコミュニケーションの大切さなどについて、考えていただく機会になればと願っています。

(2009.3.11)       

 


著作権法コンメンタール

半田 正夫・松田 政行       

 著作権法は、種々の企業活動にとって重要性を益しつつあります。企業活動にとって一般法とも言えるようになりました。情報化社会の当然の帰結なのでありましょう。企業にとっては、コンプライアンスを確保するために著作権法の知識が求められています。これまで著作権法のコンメンタールとしては、立法者が編纂したものがあり、判りやすい名著というべきものですが、さらに、企業の法務マン、弁護士が著作権法に関する具体的な事象に対して解決案を導きだす情報の多いコンメンタールが求められていました。著作権実務にたずさわる弁護士、利用者団体・企業の担当者が実務を解説すること、判例を解説して実務との関係においてその射程を示すことが必要です。

 勿論、講学上重要な条文は、研究者によって解説をしてもらいましたから、実務との関係と研究が判りやすくなったと考えています。

本書によって、具体的な事象に対する回答が導き出せるコンメンタールができあがりました。

 著作権法は、激動の中にあります。改正も重ねられていくでしょう。新しい情報は、勁草書房のホームページに掲載します。本書「著作権法コンメンタール」と合わせて読めばこの新しい情報が理解できるようにしたいと考えています。どうぞ、アクセスして下さい。

(2009.2.27)       

 


『瀬名秀明 ロボット学論集』

瀬名 秀明       

 この本を一言で表現するなら、2002年から2008年までの、私の自伝である。ロボット学というかたちを借りながら、あちこちのエッセイで、講演で、対論で、自分が考えたことを年代順にまとめたものだ。そんなものがおもしろいのか?といわれるかもしれないが、どうしてなかなかおもしろい本になったと自分では思っている。多くの自伝がそうであるように、この本も自分を語ることで間接的に時代を語っているからだ。

 それでは何の時代を語っているのか、といえば、それはロボットの時代ではなく、実はロボットを通して人々が考える、生命と非生命のもやもやとした奇妙な関係性なのだ。

 1996年、本田技研工業がとつぜん「P2」というヒト型ロボットを発表して、世界は騒然となった。やがてホンダは「P3」を、そして「ASIMO」を世に出し、ソニーはエンターテインメント型ロボット「AIBO」を放って、2000年にはロボットブームが頂点に達した。あと数年で人とロボットの輝かしい共存社会がやってくる、と誰もが信じた。

 ところがそれから鉄腕アトムの公式誕生日が過ぎ、愛・地球博が過ぎても、夢に見ていたヒト型ロボットはまだイベントで手を振るばかりだ。病院では看護師たちが忙しなく働き、ナースロボットが手伝ってくれる気配もない。ロボットは10年前と同様、いまでもやはり「未来のかけら」のままなのだ。私たちはロボットを見るともやもやとした気持ちになる。ロボットと私たちの関係はどこへ向かおうとしているのか。

 本書が語ろうとしているのは、ロボットブームが変遷してゆくそのような時代の中で、ひとりの作家がヒトと機械の関係について思いを巡らせ続けた、つまりは生き方の道筋なのである。従ってロボットのことを純粋に知りたいと願う読者には、残念ながら本書は役に立てない。しかし私たちの心とは、コミュニケーションとは、そして物語と科学技術の関係とはそのようなもやもやしたものなのだ、という気持ちを共有し、納得させるには一役買えるかもしれないと思っている。そしてこれは私の願いだが、そこから一歩先の未来へ踏み出す勇気を、ほんの少しではあるがお伝えできると思っている。
 
 もちろん私ひとりだけの本ではない。ミステリー作家の法月綸太郎さん、アニメ脚本家の櫻井圭記さん、デザイナーの鈴木一誌さんとの対論も収録してある。いずれも本当に楽しい対話だった。改めて御礼を申し上げる。

 このような論集は、おそらく世界でも初の書籍だと思う。本書は未来のロボット研究の役には立たないかもしれないが、物語の未来を少し変える力は持っているかもしれない。著者としてはそう願っている。

(2008.12.10)

 


『意味とシステム』

佐藤 俊樹       

 「まさか自分が理論社会学の本を書くとはなあ」。それが今の感想である。

 つい十数年前までは、社会科学の大地の上を、構造機能主義やマルクス主義といったグランド・セオリー,巨大恐竜が闊歩していた。地面を踏み固め、木々をなぎ倒す。粗暴さに耐えかねて、一時期、数理のお花屋敷に居候したことさえある。ジュラシック・パーク,恐竜世界に比べると格段に良い場所で、今でもお付きあいがあるが、時おり「数式にあらずんば理論にあらず」的な除草剤が撒かれて、むせ返る日もあった。

 たしかに数理は最も論理的だが、それで表現できる範囲はあまり大きくない。社会科学にとって数理はやはりモデルであり、だからこそモデルと現実との間を的確に見定める必要があるが、それに数理は使えない。結局、明示的な定義をできるだけ織り込みながら日常言語を洗練させていくしかないと思った。

 そこで、お花屋敷の少し外の草原に一戸建てをたてて、「比較」「歴史」の看板をぶらさげて住むことにした。最初はただの草っぱらだったが、最近はだいぶ人口がふえて、ここを掘った、あそこを掘ったと「ナントカの社会学」の穴をよく見かける。繁盛するのは嬉しいが、ただ掘られても……。社会科学は人が人を観察し、人に語る営みだから、穴籠りされても困るのだ。地下を掘るのは基礎工事であって、目的ではない。

 しかたがないので、相談をうけたときは自分の棲家に使った部品を紹介していた。ドイツの「ルーマン商会」製である。昔「恐竜を倒すメカ恐竜ができます!」という触れ込みで輸入されたものだが、意外なくらい使える。雨露はしのげるし、花壇の骨組にもなる。壮麗なドーム建築だって造れる。

 しかし、使いこむうちに気になる点もでてきた。妙に反った板や巨大な背骨状の梁が混ざっていて、うっかり組むとメカ恐竜もどきが出来かねないのだ。

 それで「この辺は注意しましょう」という簡単な取扱説明書を書いたら、「あなたの使い方はまちがいだ」と言ってくれる人がいた。もっともなところもあったので、もう一度考え直してみたのだが、やっぱりメカ恐竜もどきは変だと思った。メカ恐竜風になればなるほど、論理的ではなくなって、建築物にならなくなるのだ。

 だから、そういう応答を書くことにした。それがこの本である。いただいた指摘もふまえて、重要な部品群の種類や特性を再検討し、不慣れな人でもわかるよう、日常語に近い説明書きもつけた。全体の取扱説明書も改訂した。本の後半には「こんな感じで建てられます」という見本集をつけた。いわば『今すぐ使えるルーマン商会活用キット』である。

 いろいろな用途で使えるように、部品の説明も取説も見本集も工夫したつもりだ。できるだけ論理的に組めるようにしたから、分解して別の形に組み換えることもできるし、説明書きがまちがえていた場合は無理なく訂正できると思う。

 キットの名前を考えたら、やはり「理論社会学」とつけるしかなかった。巨大理論でもない。数式でもない。もちろん、ただ事実を掘り返すだけでもない。「実証」を踏みつける恐竜時代の再来はご免だが、「理論」ぬきの穴掘り遊戯も面白くない。

 その意味では、現代において理論的に考えるとはどういうことなのかを、私なりに実践してみた本でもある。

(2008.11.6)       

 


『ジェンダー経済格差
―なぜ格差が生まれるのか、克服の手がかりはどこにあるのか


川口 章       

 私は子どものころよりジェンダーについて強い関心をもっていた(もちろん、ジェンダーという言葉は知らなかったが)。なぜほとんどの男性は労働市場で働き、多くの女性は専業主婦になるのだろうか。私には、それが個人にとって合理的選択であるとはとうてい思えなかった。

 ジェンダー研究を仕事にしようと考えたのは、オーストラリアの大学院に留学していたころだ。オーストラリアではわが国とは比較にならないほど男女平等が進んでいた。調べてみると、日本は先進諸国で最も大きなジェンダー経済格差があることがわかった。しかし、そのことは、研究者にとっては研究の材料が豊富にあるということを意味する。日本でしかできないような研究ができるのではないか、そう思ったのがジェンダー研究を始めるきっかけだった。

 本書の特徴は三つある。一つはさまざまなジェンダー経済格差の原因をあれこれ追究するのではなく、格差を生み出す構造(=全体像)を明らかにしようと試みた点である。これは、学生時代に勉強したマルクス経済学の発想が根底にあったためかもしれない。

 もう一つは、ジェンダー経済格差のない社会への移行の手がかりを模索している点である。アメリカのような強い差別禁止政策や北欧のような高負担に基づく両立支援政策は、理想的ではあるが、わが国の国民性から考えて今すぐ導入するには無理がある。それらに代わる政策として、企業におけるワーク・ライフ・バランスの実態に対する情報開示政策を提案している。CSR(企業の社会的責任)が浸透しつつある今、情報開示政策は比較的受け入れられやすいのではないだろうか。

 三つ目の特徴は、ジェンダー経済格差に関わる先行研究を私なりの方法で整理し解説したことである。本書がこれからジェンダー研究に取り組もうとしている学生や若い研究者の水先案内になればと思ってのことである。

(2008.10.30)       




『悪夢の医療史』

編著者 島薗 進       

 人助けを目指すはずの医学や生命科学研究だが、恐るべき暴力の手段に用いられて来た歴史がある。危害を及ぼすことをよくよく承知しての人体実験がなされてきた。それどころか、医療の名による大量殺戮まで行われた。どうしてそのようなことが起こったのか、何が医師や科学者の手を血まみれの行為へと誘ったのか。そもそも医学や生命科学にそのような危険が潜んでいるものなのだろうか。目覚ましい医学の進歩の時代だった20世紀だが、悪夢の医療、暗黒の医療の例に事欠かない。ナチスや日本の七三一部隊だけではない。実は軍事大国、アメリカの科学技術は悪夢の医療をたっぷり含み込んでいた。

 第二次世界大戦が終わりナチスに関わった医療の残虐があらわになると、患者や被験者の権利を守るための原則を定めることが真剣に求められた。他人種・他民族や障害者を殺害したり苦しめたりする行為を正当化するのに、彼らが用いていた優生学なるものは過去のものとなったかに見えた。だが、二一世紀に入った今日、優生学は復興しつつある。リベラル優生学ともよばれる「いのちの選別」が台頭している。人体改造も広範囲に及ぶ可能性がある。そうした変化をもたらしかねないヒト胚利用や遺伝子診断・遺伝子操作などの研究が、積極的に試みられようとしている。人工妊娠中絶の許容とヒト胚利用の問題が同次元の事柄とされ、実は莫大な経済利益を目指した研究が進められようとしている。

 「悪夢の医療史」は過去のものになってはいない。現在の、また近未来の事柄としても考えるべきことだ。医学はなぜかくも攻撃的に生きもののいのちに挑みかかり続けるのか。先端生命科学の行き過ぎに歯止めをかけることができるとすれば、それはどのような根拠によるものなのか。ドイツ、日本、アメリカのさまざまな分野の研究者が集い、人のいのちをめぐる倫理の根幹に関わる諸問題を論じている。最新の生命倫理の諸問題にも深く関わる、刺激的、かつ画期的な書物である。
       
(2008.9.29)       

 


『著作権保護期間』

編者 田中 辰雄       

 著作者の死後50年となっている著作権の保護期間を70年に伸ばそうという動きがあり、本書はこれが妥当かどうかを実証的に検討したものである。

 創作に報いて文化を振興するために保護期間を伸ばすべきであるという意見がある一方、保護期間は50年もあれば十分であり、むしろ早くパブリック・ドメイン化したほうが文化の振興になるという意見もある。この論争で特徴的なのは作家や音楽家などのなかにも保護期間延長に反対する人がいることであり、著作権の保護を強めることがよいとは限らず、慎重な検討が必要なことのよいケーススタディになっている。実際、文化庁の審議会での延長の是非の論争はなかなか決着がつかない。

 本書は、このような状況にあって、主として経済的な観点なら実証的に延長の是非を検討したものである。経済学では文化の振興はより多くの創作活動が行われることであり、著作権はそのための誘因としてつくられた制度と考える。本書でもこの考えにそって、50年から70年に伸ばすことで創作活動が刺激されるかどうか、また、パブリック・ドメイン化したときに社会として利益があるのかどうかが実証的に検討される。結果としては、誘因はごくわずかであり創作の刺激になる証拠は無く、これに対してパブリック・ドメイン化した場合の利益は確実に存在していることが示される。ゆえに本書として延長はしないほうがよいというのが全体の論調となっている。

 むろん本書の実証についても異論はありうるだろう。実証分析とはもともとそういうものである。しかし、本書によって著作権問題について実証的に議論することの必要性は示せたのではないかと思う。著作権についての論争は、ややもすれば例外的事例や感情的な主張に基づくものになりがちである。たとえば、著作権に違反することは泥棒と同じだという主張がされることがある。この主張は人々の素朴な感情に訴えるのに有効であるが、実は半分は正しいが半分は間違っている。有益な情報(著作物もコピーが可能という意味では情報の一種である)はそれをつくり出した人に報酬を与えるべきであるが、同時にできるだけ多くの人が利用した方が社会として望ましいからである。このバランス問題を解くためには実証分析によるしかない。本書がそのための第一歩になることを編者としては願ってやまない。
       
(2008年8月13日)       

 


『子どもたちの三つの「危機」』

恒吉 僚子       

  「日本人はなぜ、国際的に評価されている日本の特徴を崩そうとしているのか」。本文でも書いたように、この種の質問を海外の教育研究者から投げかけられることが多くなった。近年、国外においては日本の長所だとされ、国際的にモデルだとされてきた特徴を崩す方向での改革が目立つ。  

 世界の経済大国となった今の日本は、実は、様々な領域で、アジア諸国を初め、欧米においてさえも参照されている。だが、どのような点が評価されているのかを意外に日本人自身は知らない。根拠のない自信は、ナショナリズムへと傾斜したり、思い込みに通じ、好ましいものではない。同時に、闇雲に外に答えを見出そうとするのも、同じように問題があろう。  

 日本の近代化は、西欧をモデルにして追いつくことによって成し遂げられてきた。とりわけ戦後はアメリカが最大のモデルであった。しかし、両国を行き来していると、アメリカの真似をするとよいと思われるようなところは、真似せず(例 少数者に対する政策)、副作用があったり、日本に合っていなかったり、真似しない方がいいと思われるようなところを真似しているような気にもなってくる。「灯台下暗し」というが、日本型システムの既存の強さを生かし、同時に問題点を意識することによって見えてくる方向性があるのではないか。   

 日本の子どもの教育としつけをめぐる国際的な評価をまとめなおすことによって、新たな視点をさぐってみた。
                      
(2008年7月30日)       

 


『説得の技術としての経済学』

塩澤 修平       

 本書の構想は、私が2001年1月から2003年3月まで、慶應義塾大学から内閣府に出向していたときの体験に基づいている。それまで海外も含めて大学しか知らなかった者がいきなり中央官庁に出たのは理由がある。省庁再編は橋本龍太郎内閣のときにその枠組みが作られた。橋本総理と当時の慶應の鳥居泰彦塾長とは同窓同世代で剣道仲間でもあり、大変親密であった。お二人は官・学の人的交流の重要性について意見が一致し、新たに発足する内閣府に慶應から一人出向させるということで話がついたようであった。

 2000年秋、私が講義を終え、研究室に戻ると、留守番電話に塾長秘書からのメッセージが入っており「塾長が大至急会いたいといっているので、連絡下さい」とのことである。普通、塾長から学部の一教員に直接連絡がくることはまずない。一瞬、何かやらかしてしまったかとうろたえたが、とにかくすぐに塾長室へ行くと「今度、省庁再編で内閣府ができる。是非君にそこへ行ってもらいたい」とのことであった。内閣府という組織ができることは知ってはいたが、出向の話はまったく青天の霹靂である。さらに「君の年齢では参事官になる」とも言われた。部長、課長、係長ならどれがどう偉いのかわかるが、統括官、審議官、参事官、企画官といわれても、どれがどう偉いのか、当時の私にとってはまったく見当がつかなかった。もちろん、あくまでも塾長からの「お願い」ではあったが、ほとんど考える余地もなく引き受け、参事官になってしまったのである。  

 内閣府発足当初は森内閣であったが、その年の4月に、国民の圧倒的な支持を受けて小泉内閣が発足した。経済財政諮問会議が脚光を浴び始めたのもこのときのことである。ある種の熱気が国民を覆い、霞ヶ関でもそうした雰囲気のなかで「骨太の方針」を巡って精力的な動きが続いた。その渦中に身を置けたことはある意味で大変幸運であった。国際経済担当参事官であったので、OECDやAPECなどの会議、あるいは日英、日中といった2か国協議など出席した。海外出張は2年2か月の間に20回を超えた。そのような場で、たとえば農業を巡る日本の出張がどのように受け取られているかについて、肌で実感することができた。また、国際会議に出席している官僚が、ほとんどつねに日本の本省へ向いていることも感じられたし、省庁間での利害を巡る軋轢があることも理解できた。

 また、改革の成果を問われて、「・・・について検討を開始する」ということを堂々と主張する感覚も、日本の官僚以外の人間にはなかなか理解できないと思われる。とくに、それを英訳して世界に発信しても、意味不明であろう。ただし、国際経済担当という立場上、そうしたことをせざるを得なかった。霞ヶ関では毎日多くの人間が夜遅くまで仕事をしているのは事実である。その内容は、国会での大臣に対する質問を事前に入手し、それに対する解答案を作成し、大臣に上げることと、他の省庁とのさまざまな折衝が主なものである。こうした状況を見るにつけ、日本は決して中央集権体制ではなく、「中央分権」体制であると実感した次第である。

 このように、政府内の意思決定のしくみをその中からみると、それまで大学で研究してきたことの間にカルチャーショックともいうべき違いがあった。しかし経済学が相応の役割を果たしてきた側面も事実である。その両面を踏まえて、日本における意思決定過程に対する学問の果たす役割を検討する必要があると考えたことが、本書執筆の動機である。
     
(2008.6.25)       

 

 


利息制限法潜脱克服の実務

弁護士 茆原正道・茆原洋子       

 利息制限法は、経済的弱者保護を立法目的とした強行法規です。

 利息制限法の解釈と適用は、潜脱との闘いの歴史でした。

 利息制限法の潜脱がどのような形で試みられ、繰り返されてきたか、司法はこれをどのように見抜き、潜脱を克服してきたのか、についての歴史に学ぶことこそが、現在の混乱の中から光を見出し、真に人権のための利息制限法の解釈適用を再確立する道であると考えます。

 本書は、利息制限法が強行法規として立法された歴史と重要性を序章において整理し、第一章では、充当に関するこれまでの最高裁判例の軌跡を整理するとともに、最近の最高裁判決の分析も行いました。その上で、第二章で、当然充当法理の根拠を探求し、整理することの中から、現在の混乱状況の中に進むべき道を見出すことにつとめました。第三章では、貸金業規制法43条に代わる潜脱方法として利用され始めた遅延損害金問題について、最近の下級審判例などをとり上げながら、解決の道を探っています。

 また、第四章では、利息制限法の制限を超過する部分の法的性質について、総整理を試みました。第五章では、制限超過貸付けにおける不当利得の特殊性を分析し、「継続的不法行為型不当利得」として整理しました。

 本書が、長年の高金利の支払いで疲弊しきった人々、また、高金利に苦しむ家族を支えて貯蓄を使い果たした人々、そして平成19年2月以後の混乱に心を痛める法律家にとって、基本を大切にする分かり易い理論書であり、かつ希望と実践の指針が明確になる書として活用されることを心から願っています。また、取組みを始めた行政担当者にとっても、問題の根源がどこにあるかを理解する手がかりにしていただきたいと考えます。学者の方々も、この分野に関心を持っていただき、また、法曹を目指す方にも知っていただきたい重要な人権問題です。

 そして、この本は皆の苦しみ、私達の苦しみの中から、そして魂の中心から生まれた書です。きっと希望の書となるから皆に読んで欲しい、と心から願っています。
  
(2008.5.26)       

 


『シリーズ 開発経済学の挑戦 刊行にあたって』
第1巻 技術伝播と経済成長


監修者 浦田秀次郎
               小浜 裕久

 開発経済学は1980年代から,大きく変化してきた.また,1997-98年のアジア通貨・金融危機およびその後のロシア・ブラジルへのコンテジオン(危機の伝染)以降,発展途上国の問題は急速に進む経済のグローバル化のもとで世界経済全体に影響を及ぼすようになった.われわれが予期しない新しい危機が世界を襲うかもしれない.開発経済学はさらにその重要性を増しているといえる.

 また,マクロ経済学がミクロ経済学の成果を取り入れて新しい局面を迎えたことも,開発経済学が大きく発展したひとつの理由であろう.例えば,経済成長を説明するにあたってのミクロ的基礎付けであり,内生的成長理論の分析枠組みを開発経済学でも議論するようになったことなどである.そういったことから,開発経済学は,農業,労働,工業,人口,貧困,所得分配等の伝統的な問題だけではなく環境や情報技術といった新しい問題に対して,応用ミクロ経済学,新しい貿易理論,国際金融論,財政学,ゲーム理論,新しい成長理論,新しい制度経済学,集積の経済,ガバナンスに関連した政治経済学など理論および実証分析において著しい進展が認められる枠組みを取り入れて分析されるようになった.ますます今後の展開が期待される.

 世界人口の80%を占める発展途上国の貧しい人々の生活水準を改善するためには,どのような政策が必要とされるのか.その問題解決にいたる手法がさらなる開発経済学のみならず経済学の発展につながるだろう.

 2000年9月の国連総会において,貧困削減,保健・教育の改善,環境保護に関する具体的な達成目標である「ミレニアム開発目標」が採択され,世界銀行も『世界開発報告2000/2001』で貧困特集を組んでいる.これらの動きも開発経済学の調査・研究のさらなる進展を刺激・促進するものとみられる.

 開発経済学と実際の開発・援助の潮流は,良くも悪くも,世界銀行・IMFの考え方が主流であった.そこでの考え方も大きく振れてきたこともまた事実である.最近の20年間を見ても,1980年代は市場メカニズムを活用することによって経済効率を高め,成長を促進すべしとする「ワシントン・コンセンサス」の時代であったが,1990年代に入って貧困削減があたかも唯一至上の目標といった観がある.21世紀に入ると,以前からの問題に加えて,人口大国である中国やインドなどの経済成長が著しいことから,環境,資源や食料の供給,所得格差などの問題が注目されるようになった.今われわれは再び経済成長こそが発展と貧困削減の原動力であるとする時代に回帰したのかもしれない.

 開発協力は開発経済学の重要な応用問題であり,上のような開発理論・援助思潮の変化は,日本の開発協力にも大きな影響を与えつつある.ODA予算の削減のもと,日本の途上国援助政策は今後どのような方向を目指すべきかを考えるにも,これまでの開発経済学の流れを概観すると同時に最先端の考え方を理解することもまた不可欠である.本シリーズでは,このような視点に立って,アカデミックな開発経済学の新潮流だけでなく,「開発援助に関する考え方の潮流」あるいは,「日本の援助のあり方」についても加える予定である.

 開発経済学は経済学の実験室ともいわれる.本シリーズは,このような開発経済学がその役割を自覚し発展する新しい流れのなかで,広い意味で学術的な貢献を果たすことを目的に、「若手・中堅」の研究者による「開発経済学の挑戦」として企画されたものである.

「開発経済学の挑戦」 刊行予定

国宗浩三 『経済危機と国際機関』
黒崎 卓  『貧困と脆弱性の経済分析』
神門善久 『経済発展と教育・学校』
澤田康幸 『ODAの経済学的研究』
高橋基樹 『開発と国家:アフリカ政治経済論序説』
戸堂康之 『技術伝播と経済成長:グローバル化時代の途上国分析』

(著者五十音順.以下,続刊の予定あり,また書名は変更の可能性があります.)
 

(2008年4月)       

 

 


『なぜ「教育が主戦場」となったのか』

栗田 哲也       

実態は豊か、気分は鬱。これが現在の日本社会の構図である。教育も同様だ。

 なんと豊かで平和な時代かと、いつも思う。

 評論家が口角泡を飛ばして、二極分化だ格差だと騒ぎ立てても、暴動はおろか激しい議論一つ起こらない。本当に皆が辛いなら、街の居酒屋では口論が絶えず、トラ箱も満員御礼だろうに、現実にはトラ箱さん、収容者不足で近く廃止の憂き目を見るそうだ。

 私は近頃PTAなるものに参加したのだが、そこで会話したごく普通のお母さんたちは、別に不満も持たず、明るく子育てにいそしんでいた。彼女ら相手に深刻な教育問題など論じたら、ポカンとされ、それから敬して遠ざけられたことだろう。

 要するに豊かなのだ。もちろん、どんな時代でも貧乏な人はいるし格差は出る。しかし、物質的に豊かでないと言い張る人がいるなら、一億総中流といわれた70年代に飛んでみるがよい。現在の豊かな食生活や、衣服、娯楽になれた身では、70年代の庶民の生活に戻りたい人はそう多くないと思うがどうだろうか。


 だが、やはり問題はある。人により相違は大きいのだが、気分が鬱の人が多いのだ。働き盛りの公務員、先生、若い会社員、青年・・・

 はたから見れば豊かで恵まれているのに、どうも気分がすぐれない人が多くなっている。

 これこそが私たちの時代の問題なのだ。

 戦争があり、貧乏生活をして辛いという苦しさでなく、豊かな時代には豊かな時代の問題がある。それは精神的問題だ。肉体の問題ではないだけに見えにくいが、それはやはり問題だ。

 だが、その問題の所在は、戦後一貫した「豊かになれば問題は解決する」という素朴な信仰(たとえばGNP信仰)によって覆い隠されてきたし、いまだって現に社会科学がその問題を覆い隠している。なぜならば、精神的問題は計量が不可能なゆえに、科学の俎上には載らないからである。社会の二極分化論や、ジニ係数を持ち出して格差の拡大をいう人を見ると私はどうもしらける。

 彼らは、豊かな時代の問題をあたかも貧困の指数を計るかのように計量化しようとしてこじつけをし、うつを診断するのにCTスキャンを用いているような気がするのだ。

 こうした気分(鬱)の問題は、どこから生まれてくるのだろうか、それが私の(大げさに言えば)ライフワークである。なぜならば私は『貧困と戦争の時代』ではなく『平和と鬱』の時代に生まれてきてしまったからだ。

 今回教育をテーマとして描き主張した事柄は、そうした『平和と欝の時代』の一側面として読んでいただければ幸いである。学力を論じても、階層を論じても、自由や平等を論じても、私の視線はいつもそこにある。
                                     

(2008.4.4)       

 

 


『基礎から学ぶ生命倫理学』

村上 喜良       

 毎年、生命倫理学の講義の最初にいくつかのアンケートをとっている。そのなかの「脳死と判定されたら臓器提供をしますか」という問いに、「提供します」という回答が年々増えてきている。しかし、これは脳死臓器移植に対する理解が深まったというのではない。講義をしていると、そもそも脳死がどういう状態なのかを全く理解していないのが分かってくる。人工授精や代理出産や遺伝子操作などについても同様である。あるいは、人工妊娠中絶や尊厳死に議論されるべき問題があることさえ理解していない学生が多い。彼らばかりではなく、一般の人たちもそうなのではないだろうか。

 そこで、これらの高度に発展した技術が私たちの生活や生き方にどのような影響を与えるのかを議論する前に、まずは生命倫理学の全体像と、そこで議論されている諸問題の基礎的知識、これまでの争点について理解してもらうことが急務であると考え本書を書き始めた。これらの問題は命を受け継いでいく私たちすべてに関わる重大なことなのだから、なるべく学術用語を用いず誰にでも理解できるように平易に解説した。

 しかし、従来の論争を整理し大半を書き終えてみると、とても違和感を覚えた。

 これらの問題に対して、従来、人の命はいつから生存権を持ち、いつから生存権を失うのか、という仕方で議論がなされるとともに、倫理的なジレンマは原則的に自己決定権に委ねることで解決がはかられてきた。そのような自己決定権を最高原則とする考え方は一面的な議論であり、何か重大なことを見落としているように思え始めてきた。そこで、この違和感と対峙してみた。

 見えてきたことは、命に対する私たちの日常的な振る舞いである。日常において私たちは生存権や自己決定権という視点で命を見ているのではなく、むしろどのような命でも出来る限りそれを受け入れ気遣おうとしているのである。それは権利とか義務とか、正しいとか間違っているとかという議論以前のものである。それを「他者の心底に共振する気遣い(ケア)」として明らかにしようと試みた。いまだに不十分な考察ではあるが、前半の基本的な解説部分と対比させながら批判的に読んでいただければ幸いである。

(2008.4.14)       

 

 


『紛争の戦略』
                                           
河野 勝       

 シェリングは、社会科学の歴史にその名がさん然と輝く知的巨人のひとりであり、とりわけ本書は彼の代表作と位置付けられているきわめて重要な業績である。それを、本シリーズの一冊として、日本の読者に紹介できる機会を得たことを大変うれしく、また同時に大変光栄に思う。

 シェリングは、2005年に、ノーベル経済学賞を受賞した。その評価の中心となったのは、本書において新たに導入され展開されている概念や分析である。しかし、本書を一読すればたちまち明らかなように、シェリングは、狭義の経済学にはとうてい収まりきれない広い知識と関心の持ち主である。また、このたび寄稿してくれた日本語版への序文で自身も認めているように、シェリングは、単なる「ゲーム理論家」ではけっしてない。おそらく読者の誰もが本書を読んで感銘するのは、既存の思考枠組にとらわれることのない、彼の着眼の縦横無尽さと発想の大胆さではないかと思う。しかも、シェリングは、いかに奇抜なアイディアであっても、それをとことんまでつきつめて考える強靭で忍耐強い思考力をも併せて持ち合わせている。このような稀有な才能の組み合わせが、実にユニークな本書を生んだのである。それは、そもそもゲーム理論などという分析の手法が成立するための前提は何なのか、また経済学なる研究分野が拠ってたつ根拠は何なのか、そしてそうした前提や根拠はどのくらい非現実的で薄弱であるのか、さらにそうした欠点はどのようにして乗り越えていくべきなのかを明らかにしてくれる。

 また、本書全体を通して浮き彫りになるもうひとつの特徴は、抽象的な概念や主張を国際関係、経済、さらには人間社会の日常的な場面で遭遇するさまざまな問題に引き寄せて考えようとする、シェリングの徹底した姿勢である。とりわけ、冷戦時代に執筆されたこともあって、本書には国際政治の多くの問題への深い思い入れが見て取れる。

 本書を手にした読者のみなさまがそれぞれに、考えることのスリルと楽しさを体感していただければ幸いである。

(2008.3.14)       

 

 


中国の経済大論争
中国における政策論争の軸となる公平性VS効率性

                             
野村資本市場研究所 関志雄       

 中国は、1978年から市場化を中心とする改革を行い、年率10%という高成長を達成した。所得格差が拡大している中で、その恩恵を受けていない庶民の間では、不満が高まっている。これを背景に、改革の評価と今後の進め方を巡って大論争が起きている。その対策は、国有企業の民営化や、外資政策、医療・教育・住宅問題など多岐にわたっている。

 これらの論争は主に「効率性」Vs「公平性」を軸に、「新自由主義者」と「新左派」の間で繰り広げられている。中国では、「社会主義」の看板とは裏腹に、新自由主義者は政策に強い影響力を持っており、学界でも主流派として君臨している。その一方で、公平性を重視する新左派は、庶民の間では人気を集めながらも学界では非主流派の地位に甘んじている。

 中国が不公平な社会になってしまったことについては、両陣営の間では異論はないが、その原因と取るべき方策を巡っては、意見が分かれている。「新自由主義者」は政府の市場への不適切な介入に根本的な原因があると考え、私有財産権の確立と市場経済に基づいた所得の分配を主張している。これに対して、「新左派」は私有財産制と自由市場経済を不平等の最大の源泉と見なし、公有制の維持を一貫して主張している。

 2002年に登場し、昨年の党大会を経て二期目に入った胡錦濤政権は、「調和の取れた社会」を旗印に、効率一辺倒であった従来の政策を改めて、平等をも重視する発展戦略に転換しようとしている。これに合わせて、政府の政策立案に当たっては、新自由主義者の発言力が相対的に低下し、新左派の意見も取り入れられるようになった。

 中国と同様に、日本においても、「格差社会」をはじめ、効率性と公平性にかかわる多くの政策課題を巡って、論争が繰り広げられている。「他山の石、以て玉を攻くべし」という諺の通り、長期低迷に陥っており、改革を迫られる日本の取るべき道を考える際に、本書がひとつの参考になれば幸いである。

(2008.3.18)       

 

 


『不安定雇用という虚像』

佐藤 博樹       

 本書を手にした人は、センセーショナルなタイトルと感じる人も少なくないであろう。著者らの意図は副題にある。パート、フリーター、派遣などに代表される雇用機会には、不安定なものも含まれているが、そのすべてが不安定な雇用ではない。同時に、正社員の雇用機会のすべてが安定した雇用というわけでもない。そうした単純な2元論でなく、それぞれ雇用機会の実像を働き方の視点から明らかにしようとしたのが本書の目的である。

 最近の格差議論によれば、非正社員は、正社員の雇用機会がないために、やむなく非自発的にその働き方を選択した者が多く、また雇用が不安定かつ低賃金で、能力開発の機会も乏しく、働く人々にとって望ましくない働き方であるとの主張が多い。しかし働き手の視点から実像を分析すると、そうした主張が、非正社員の働き方のすべてに当てはまるわけでないことが明らかとなった。非正社員の相当程度は、自分のライフスタイルにあった仕事上の希望(仕事志向)を充足しやすい働き方として非正社員の働き方を選択しているのである。従って、非正社員の働き方を望ましいものではないとし、政策的に非正社員の正社員化を一方的に促進することは、働き方の選択肢を奪うことになり、働く人々の希望を実現する機会を狭めることにもなろう。

 もちろん、非正社員の働き方に改善の必要性がまったくないというわけではない。しかし、正社員として働いている人の志向やその働き方を基準として、非正社員の働き方を評価するのではなく、それぞれを異なる働き方として位置づけ、非正社員の働き方に関しては、それらに従事している人々の志向に即してその働き方の特徴や課題などを明らかにすることが重要なのである。こうした視点からすると、非正社員の働き方の問題点をその働きからに即して理解すると共に、その改善もその働き方の特徴を生かす形で行うことが求められる。

(2007.11.6)        

 

 


「時間と絶対と相対と 運命論から何を読み取るべきか」
    
入不二基義

 「時間」には、過去・現在・未来という三つの様相があり、さらにその三つの様相には、関係相と無関係相というメタ様相がある。「未来だったことが現在になり、やがて過去になっていく」と捉えるとき、あるいは現在から過去を想起したり、未来を予測したりするとき、過去・現在・未来は、相互に結びつき置き換わっていくものと見なされている。これが、関係相である。しかし、過去は、将来思い出されることなどとは無縁に、ただ単にあったはずの時だし、未来は「(まだ)ない」のだから、予測などの現在の心の働きがいっさい及びようのない無である。そして、この現実の現在は、想起過去や予期未来をすべて含み込んで、ただそれだけで全体としてある。これが、無関係相である。もちろん、関係相と無関係相は、複雑に重なり合っている。

 「絶対」とは、「対を絶する」という意味である。つまり、対(隣り合うもの)がないという仕方で、ただ一つであり全てであるということ。「絶対」は、時間の「無関係相」に通じている。一方、「相対」とは、「他のものとの関係においてあること」なのだから、時間の「関係相」に通じている。

「私たち」は、自らを自分たちとは異なる者(他者)との関係において立ち上げるが、その立ち上げもまた「私たち」の内で設定される。つまり、「私たち」は、全体でもその全体の中の部分でもあり、その落差を反復する。「私たち」は、絶対的でも相対的でもある。この点が、相対主義の問題の哲学的な要諦であるとすれば、相対主義の問題は、関係相・無関係相という時間の問題に貫かれていることになる。

時間と相対主義という問題を、このように追いかけていくと、「運命」という問題に突き当たる。ただし、「運命」といっても、過去の出来事に過大な意味を付与するような主観的な解釈としての「運命」でもなければ、未来は因果のつながりによってあらかじめ決定していると考えるような自然的・客観的な「運命」でもない。私が本書で論じる「運命」とは、「現にあるようにあるしかない」「まさに今あるようにあるしかない」という現実の全一性=必然性のことである。

(2007.9.7)       

 

 


『カップルが親になるとき』
                                 
山田 昌弘・開内 文乃       

 日本のカップルは子どもが生まれると相手のことを「パパ」「ママ」、「お母さん」「お父さん」と呼ぶことが多い。子どもがいない夫婦でも、ペットを飼った途端お互いをパパ、ママと呼ぶようになったというケースを調査したことがある。「こうした呼び方は夫婦仲、さらには家族関係を悪くさせる可能性がある」と指摘したら、ほとんどの人は「何が問題なのか」と首をかしげるだろう。しかし、「パパ」「ママ」は子どもが親を呼ぶときのものあって、夫婦の間で使うものではない。本来、親子関係と夫婦関係は別ものなのである。カップルにとって「夫であることと父であること」「妻であることと母であること」はどのように違うのだろうか。

 私たちが「家族」と聞いて思い浮かべる姿は父と母とその子供というものであろう。この父と母と子からなる家族形態は「近代家族」と呼ばれている。だが、本書のタイトルが『カップルが親になるとき』であることが示しているように、夫婦仲を考えるときは「近代家族」が形成される前にはカップル関係=男女関係が存在していることを見落としてはいけない。現在のカップルは学校では男女差別なく勉強をし、職場においても男女雇用機会均等法のもとで仕事をしてきた世代である。このカップルが結婚し、夫と妻という関係になった場合、ふたりで仕事をし、家事を分担し、平等に助け合おうとする。しかし、カップルに子供が生まれ、父と母という役目が加わり、家族となったとき、ふたりの関係は大きく変化する。なぜなら、「近代家族」における父親は家の外でお金を稼いでくる人、母親は家の中で家事や子どもの面倒をみる人だからである。父と母の役目は家庭の外と内、お金を稼ぐ人、稼げない人に分かれ、お互いの仕事を分担できない「性役割分業」を前提としている。ここに「男女平等」の思想のもとで育ってきた現在のカップルが親になる難しさがある。

 本書は夫と妻というカップル関係を維持するために、さらには「家族」を維持するために、「性役割分業」に頼らない新しい家族のあり方を模索したものである。

 子どもが生まれたカップルを、妊娠期から学童期まで、10年に渡って縦断的にインタビュー調査するという他にはみられない手法を用い、現代家族に置いて、カップル関係と親子関係がどのように調整されるかを実証している。

(2007.9.3)       

 

 


『経験のメタモルフォーゼ ――
〈自己変成〉の教育人間学』

高橋 勝

 オタマジャクシがカエルになる。さなぎが美しい蝶に変わる。「メタモルフォーゼ」とは、もともと昆虫や両棲類の生態変化を示すコトバであった。このコトバを人間に当てはめて、予想もつかない生の自己変成のプロセスを解読しようとしたのは、自然科学者でもあった詩人ゲーテである。

 人間の「生きるかたち」の変貌としての「メタモルフォーゼ」。「かたち」(Morophe)を「超えて」(meta)いく流動的な生命体としての人間。人間形成を意味する"Bildung"というドイツ語には、社会化や制度化には吸収し尽くせない自己変成する生命体としての人間のイメージが込められている。

 カバーの帯にも記されているように、本書は、「人間形成」において経験とは、いかなる意味をもつのかを教育人間学の方法で明らかにしようとしたものである。ここでは、「教育」というコトバを意識的に避けている。それはなぜか。近代社会において「教育」とは、ほとんど「学校教育」と同義である。学校教育という枠組みの中で経験の意味を問えば、それは子どもの発達を促し、何らかの経験知を蓄えるという方向でしか議論は進まない。学校とは、基本的に産業社会を生き抜くための「力の増強」を図る機関だからである。

 思想史的に見ても、「経験」というコトバには「負担軽減」という強固な意味が付着している。例えば、経験豊かな教師は、過去の経験知の蓄積が豊富であるから、新米にくらべて、優れた教育を行うはずだという常識的な経験論がそれである。そこには、不確実な未来に怯え、未来を可視化して統御したいとする近代人の欲望が滲み出ている。

 しかし、人は予想もつかない出来事の中に投げ出されている。経験は、人の力を強化するものではなく、その弱さを知らしめる。生活地平を防御し、守るものではなく、生きている地平そのものが揺るがされる。アイデンティの一貫性と自立を強化するのではなく、その脆さと儚さを知らしめる。他者に出会うとは、本来そういうことではないのか。

 これが、本書で語られる経験である。経験は、教育方法の整理箱に収まるほど馴致可能なものではない。それは人を不安に陥れ、傷つけ、自己を見失わせるものでもある。本書では、現象学や生命哲学などに依拠しながら、経験による人間的生のメタモルフォーゼの諸相を多元的に浮き彫りにしようとした。

(2007.8.6)       

 


『戦争を読む』

加藤 陽子       

  「著者の一言」を読む人というのは、いったいどのような人物なのだろうかと夢想する。

 歴史学界を離れてはほとんど無名の私の名前を検索して、このサイトに辿り着く方はおそらく皆無だろう。民法の名著「ダットサン」を刊行している出版社であるから、法律家が新刊を探しにやってきて、ついでにトップページ左端の「読み物」のタグをクリックしてみた……、そのようなケースが多いのではないだろうか。

 あるいは、次のようなケース。

 今、多くの書店の平台は、日中戦争勃発七〇周年にあたる今年の夏をあてこんで、すでに六月半ばにして戦争関係の書物であふれかえっている。新刊書の「顔見せ」がなされている、その書店の平台の上で、ひときわ清新な光を放ち、清冽な空気を纏った本書に気づき、この本はいったいどのような内容なのだろうかと興味を抱き、購入前にチェックするため出版社のPRのページに来てみた……。

 自分の書いた本を「ひときわ清新な光を放ち、清冽な空気を纏った」本などと形容する阿呆の本など買うものか、と早合点されてページを閉じられては困るので、大急ぎで付け加えると、この形容句は、本書の装幀を担当された寺山祐策氏の功績に捧げられるべきものなのである。白い帯には、金の文字。白地の本体には、上品な中間色の色の束が豊かに畳み込まれ、こぼれている。ああ、もう内容なんてどうでもよいのです。買っていただいて、眺めていただくだけで、本好きにはもう堪らない本となっている(はず)。

 『戦争を読む』などという物騒なタイトルをもつこの本は、不肖私が、ある時は友情を犠牲にし、ある時は睡眠を犠牲にしつつ、読みも読んだり書きも書いたりで、一八年間にわたって書きためた書評を一堂に会したものである。

 冒頭に吉村昭『彰義隊』が来ていることからもわかるように、歴史学の分野に限定せず、広く文学も含めて、戦争にまつわる書物についての書評を中心に編んだ。文学は日本近代の戦争をどう描いてきたのか、歴史学は日本近代の戦争をどこまで解明してきたのか――。こうした疑問に対する自分なりの答えがこの本にほかならない。
                                     

(2007.6.20)       

 

 

 


『戦争の論理』
                             
加藤 陽子       

 題名が『戦争の論理』であり、装丁も綺麗な中間色の色で「戦争の論理」という文字が一つ一つ黒と白のモノトーンの背景から浮かび出るように工夫された美しい本ですので、一瞥しますと、とても頭のよい哲学者か政治学者がクールに戦争を語っていると誤解される向きもあるやも知れません。美しい誤解はそのままにしておく方がよいのでしょうが、やはりここは真実を語っておきましょう。実のところ当方は「私、生まれも育ちも日本近代史です。伊藤博文関係文書で産湯をつかい、姓は加藤、名は陽子、人呼んで…」と続ける方が似合う、十年このかた、戦争を発生させる歴史的条件や国民的衝動といったものについて考え続けている歴史研究者です。

 戦争によって最も痛苦を味合うはずの国民は、つい十年前の戦争の惨禍さえ忘れてしまったかのように次なる戦争に熱狂している、それは何故なのでしょうか。たとえば幸徳秋水は、日清・日露の二つの戦争を目撃し、こうした疑問を痛切に感じた一人でした。日露戦争開戦後二ヵ月たった『平民新聞』に秋水は「我国民の多数、口を開けば即ち曰く、『文明の外交』『王者の師(し)』『仁義の戦』『帝国の光栄』と。無邪気なる哉、金太郎の鉞(まさかり)を揮(ふる)ふが如く。可愛らしき哉、桃太郎の鬼ヶ島を征伐するに似たり」と書き、金太郎や桃太郎が悪者を退治するような単純さで戦争を見るようになってしまった国民を批判していました。

 原敬が日露戦争開戦三日前の日記で「少数の論者を除くの外は内心戦争を好まずして而して実際には、戦争に日々近寄るものの如し」と書いたことはよく知られていますが、内心戦争を好まなかった国民が何故、ほんの二ヵ月で先に述べたような目で戦争をみるようになってしまうのでしょうか。本書は、こうした疑問に対して、日露戦争で秋水が感じた驚き、第一次世界大戦で吉野作造や石原莞爾や北一輝が感じた驚きを読者とともに追体験することで、あるいは、歴史の闇に埋もれた戦争にまつわる制度や組織や論理についてさまざまな角度から考えることで、答えをだそうとしたものです。

(2005.7.4)       

 

 


講座 医療経済・政策学 全6巻

「講座 医療経済・政策学」編集委員会

 21世紀初頭にわが国は世界一の超高齢社会となった。それに伴い、国民医療費が増加し続ける反面、医療機関の経営困難は増し、医療事故(報道)の多発により国民の医療不信が強まっている。これらの諸問題を国民皆保険制度を維持しつつ解決するためには、医療の質の引き上げと医療の効率化の両方を達成することが求められている。

 この困難な課題を達成するためには、医療経済学と医療政策研究の知識と方法が不可欠である。本講座の目的は、従来別個に行われてきた両分野の研究を統合し、新たな「医療経済・政策学」を確立・普及することである。具体的には、政策的意味合いが明確な医療経済学研究と、経済分析に裏打ちされた医療政策研究との統合・融合をめざす。

 わが国でも、1990年代以降、医療経済学と医療政策研究は急速に発展してきているが、特に実証研究の面では欧米諸国に遅れている点は否めず、各国の研究成果を学ぶ必要がある。しかし、医療制度は各国の歴史と文化に根ざしているため、それらを直輸入することはできない。本講座では、わが国の研究成果と欧米諸国の研究成果の統合もめざす。

 全6巻からなる本講座は、わが国初の、医療経済・政策学の包括的で「より進んだ教科書」である。医療経済学と医療政策研究の基礎理論を示すと同時に、日本の医療経済・政策にかかわるアクチュアルな諸問題を学問的に、しかも分かりやすく論じることにより、大学・大学院だけでなく医療現場でも幅広く「使える」教科書ともなっている。


  

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